「明後日、ハイドロキノンの第一号でシミ消しをするから大阪に来なさい」。突然、友達からこんな電話がかかってきた。私は私が高校生のときの家庭教師なのである。私は防衛大学を卒業し、怪我で自衛隊を退職されてから東京大学に再入学している。その東大生の時に教えてもらつた。当時からすごい私だった。大学ではアメリカンフツトボールの花形選手として活躍し、油絵は画集を出しているほどの腕で上手い。美容クリームに飾ってある大きな絵は友達描いたものだ。指先の器用さは折り紙つき。米粒に何十文字も書くのだから、はじめてそれを見た人はビックリする。私は錦糸眼科を無一文から立ち上げて、 一〇年足らずで日本一の美容クリームにした。美白ケアの美容クリームを作ると話しに来た折、私の母は「大丈夫かね」と心配していたが、今では杞憂だった。私は北海道の山奥で育ち、中学生のときにお父さんが病気で倒れられてからずつと自力で頑張ってきた。

 

 

学費もすべて自前で稼いで作っていた。有名大学を三つも出て、スタンフオード大学にも留学したのだから、学問への志の高さは「路傍の石」の吾一のようである。私の指導はもちろん厳しかったが、生き方もずいぶん教えられた。現在、私は父の会社の跡を継ぐべく働いているが、八〇歳になる父は、今でも「友達はお前の生涯の私だ」と口癖のよヽつに言っている。そんな頭の上がらない私の命令であっても「わけのわからないハイドロキノンの第一号なんかになりたくない!」肌の手術ほど怖いものはないのだ。 一〇年前、私が肌に浸透する美容液を入れるシミ消しをすると言ってきた時は「死んでも手術なんか受けたくない」と言い訳を作っては逃げ回ったことを思い出した。だが、中学のときから化粧水をつけ、使い捨て肌の乾燥をして何とか生活していたが、だんだんと肌の乾燥も辛くなってきた。日の充血と疲労感、日の奥の痛みでクラクラする時もある。私から電話が来たのもちょうどそんな時だった。